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六十、奪う者

 視界が晴れたと同時に首元にチクリと痛みが走ったのは、瞬く間の出来事だった。
 
「ッ……!」
「初めまして、名前ちゃん」
 
 知らない女の子に背後から名前を呼ばれて、振り返ろうとしたができなかった。そのまま床にばたりと倒れ込む。
 
 なに……何が、起こったの。
 
「んふふふふ、痛いねえ。お注射痛いねえ。動けないねぇ!」
 
 ぐにゃりと歪む視界の中で、こちらを覗き込む制服姿の女の子が見えた。お団子頭のその子は、しごく楽しそうにこちらを覗き込んでいる。
 
「苗字ッ!!」
 
 遠くに爆豪くんの叫び声が聞こえた。さっきまですぐそばに居たはずなのに、その声が急速に遠のいてゆく。そこでようやく、わたしの意識が薄らいでいるのだとわかった。
 
 どうしよう、このままじゃ二人で立てた脱出計画が……。
 
「中枢神経を麻痺させる毒だ。ゲームオーバーだな」
 
 低く掠れた声がして、かろうじてそちらに視線だけを向けた。瞼が重い。手足が動かない。
 けれど、その声には覚えがあった。あいつだ、死柄木弔だ。
 
「ったく、厄介なガキだぜ」
『ありがとう、弔。では、その子はこちらにもらおうか』
 
 複数人の足が見えて、されど混濁した意識では数えることすらままならない。
 まるで、大事な物をひとつずつを手放していくようだ。景色も、音も、意識すらも、なにもかも。
 ああ、こんなにも呆気ないなんて。
 
「苗字ッ!! おい、しっかりしろ!!」
 
 体が重い。瞼が力なく閉じる。暗闇に堕ちる。わたしを呼ぶ爆豪くんの叫びが、遠ざかってゆく。


 ゆっくりと水の中を浮上するように意識を取り戻した。目を瞑ったまま覚醒して、頬に冷えた床を感じる。
 かろうじて開いた瞼の先は、まだぼんやりとしていた。腕と脚、いや、指ですらほんの少しも動かせない。現実に引き戻されたのに、まだ夢の中にいるような気がした。
 
「やあ、目を覚ましたかい?」
 
 ぞわり。
 
 瞬間的に、悪寒が大波のように押し寄せた。同時に酷い吐き気と、手足の痺れを知覚する。頭の中に広がっていた白いもやが瞬時に晴れて、まるで冷たい水を浴びせられたようだった。
 視界の先は真っ暗だ。自分にスポットライトのような光が当たっているせいで、すぐ先すら見通せない。それなのに、すぐそばに恐ろしい者がいるとわかる。
 動かない身体が、なぜか小刻みに震えはじめた。
 
「雄英高校の体育祭だったか。中継で見せてもらったよ」
「っ……」
 
 息が、できない。今にも事切れてしまいそうだった。
 比喩じゃない。目覚めと共に感じた気迫のような何かがこの身に降り注いで、その重圧に押し潰されてしまいそうで。
 言われずともわかった、わたしは今からこの男に殺されるのだと。
 
「素晴らしい個性だ。原動力はその翼かな? いろいろとできるように見えるが、その実、構造はシンプルなものかもしれない」
 
 ダメだ、この男は駄目だ。危険すぎる。
 全身が、人間の奥底に眠る第六感のようなものが悲鳴を上げている。それほどに男は圧倒的な凄みを放っていた。
 
「できれば研鑽によるものではないといいんだがね」
 
 打たれた薬のせいじゃない。恐れ慄く身体が大きな震えを伴って危険を知らせている。今すぐ逃げろ、助けを呼べと、この身が叫んでいる。
 
「では、早速いただくとしようか。君の個性は私がもっと賢く使ってあげよう」
 
 カツカツと近づいてくる足音。ぐにゃりと歪む視界の中で何かに頭を触られて、咄嗟に目を瞑った。自由のきかない身体では逃げることすらままならない。
 
「ッ……!」
 
 さらりと頭を撫でられて、完全に逃げ場を失った。
 
「や、ッ」
 
 何をされるの。嫌だ。やめて。触らないで。
 得体のしれない恐怖から、逃げ惑うように身体をよじる。
 
「おにぃ、ちゃんっ……」
 
 おにいちゃん。おにいちゃん。おにいちゃん。
 助けて。
 わたしをたすけて!
 
「……どういうことだ。なぜ奪えない」
「っ!」
 
 相手の動揺を感じとって、咄嗟に男の手を払い除けた。その爽快感に思わず目を見張る──よかった、動ける。つい先ほどまではピクリとも動かなかった肢体に支配権が戻りはじめていた。
 
「ああ、僕もそこそこ長生きしているがね。こんな事は生まれて初めてだよ。……君は、いったい何者だい?」
 
 視界がゆっくりと焦点を取り戻してゆく。
 そうして目の前に見えた、ダラリとぶら下がった腕が突如として変形した。鋭い刃物のように尖ったそれが、飛んでくる。
 
「いっ……!」
 
 突然、腕を切りつけられた。ぴしゃりと飛び散る紅い血飛沫。しかし瞬く間に塞がる傷口に、目の前の男は釘付けになった。……いや、正確には〝釘付けになったように見えた〟が正しいだろう。
 近くに片膝をついていたそいつを恐る恐る仰ぎ見ると、驚くことにその男には眼球がなかった。おそらく別の形で視認していると思われるが、今はそんなことどうだっていい。
 腕を引きずったまま本能のままに後ずさる。
 
「……なるほど。再生すらも持っているというわけか」
 
 まずい。超再生を見られてしまった。一番見られてはいけなかったのに!
 状況はよくわからないが、相手はおそらく敵の親玉。知られてはどう利用されるかわからない。
 
「御しがたい。ならば脅威の芽は摘んでおかねば……いや、待て。それは後でいい。薬物が有効であれば殺すなど造作もないことだ。まずは君の身体を切り開いて、中をじっくりと研究するとしよう」
 
 それは、最も恐れていた事態だった。言葉の恐ろしさに全身が凍りつく。感覚の戻った手足が大げさなほどに震えた。
 いやだ。助けて、お兄ちゃんッ!
 
「……そう。まずは、引いてダメなら押せだな」
 
 再びゆっくりと男が近づいてきた。また頭に手を乗せられて、今度はがしりと強く掴まれた。
 その瞬間、からだ中にバチバチと鋭い電流が流れた。
 
「やッ……!」
 
 痛い。頭が割れそう。
 嫌だ。こんなところで死にたくない。
 わたしには、まだやるべきことがあるのに!
 
──バチンッ!
 
 火花が散って、男が弾かれた。
 
「きゃっ……!」
 
 なにが、起こったの。
 
「フハハハハハ! 身体に〝個性もの〟を入れるなということかい?」
 
 幸いにも、今の衝撃で視界が完全に晴れた。何が起こったのかはわからない。けれど、男にとって不都合が起きていることだけは確かだった。
 
 よし、今のうちに逃げ──
 
「いっ……!」
「そうはいかないよ」
 
 足元にチクリと刺されたような痛みを感じて、すぐさま後悔が押し寄せた。見ると注射針が刺さっている。
 一度ならず二度までも同じ手で、くそっ。
 
「君にはこれが一番有効なようだね」
 
 悔しい。敵から逃げることすらままならない、役立たずな自分が情けない。こんなの、こんなのヒーロー失格じゃ、ない、の……。
 
「では、迎えに行くとしようか」
 
 重くなる瞼の先で、男が口元に不気味な笑みを浮かべていた。

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