66
六十六、最近の先生はわたしに甘い
約束の場所へと到着すると、苗字が芝生の上で寝転がっていた。その瞳は柔らかく閉じられ、すやすやと規則正しい寝息が聞こえている。
寮生活が始まってからは、連日、圧縮訓練で個性伸ばしをしているせいか疲れも溜まっているんだろう。苗字は時折こうして芝生に寝転がっては、日向ぼっこという名のさぼりに興じる節がある。
──ミャア
無防備にもほどがあるが、まあ、百歩譲ってそれはいい。
許せないのは監視役のカラスにまぎれて猫たちまでもが集まってきていることだ。なんなんだ、この幸せな状況は。
「……けしからんな」
「激しく同意します」
心操が俺に呼応するように隣で深い溜息を吐いた。まあでも、と続ける。
──ミャア
足元に温かいものが触れた。やわらかな感触は両足の隙間にするり滑り込んで、無遠慮に行く手を阻んでいる。
黒猫だ。金色の瞳はここいらじゃめずらしい。
そっと眺めていると、そいつが尻尾を絡ませながら背中をすり寄せてきた。思わず息を呑む。
「もう少しだけ、寝かせてあげましょうか」
隣に目を向けると、俺より先に座り込んだ心操が、役得だと言わんばかり三毛猫を撫でていた。
「……少しだけだぞ」
そうして俺は、ゴロゴロと鳴く黒猫の喉にそっと手を伸ばした。
「そういえば、思い出せた?」
一通りのトレーニングを終え、小休憩に木陰で休んでいると、隣に座る心操くんが例の話をもちかけてきた。
まったく美味しくないミルクティ味のプロテインを嚥下しながら「ううん、ぜんぜん」と返す。
「何の話だ」
二人だった会話がいつの間にか三人になっている、と思った。
心操くんとの特訓に付き合いはじめた当初は、休憩中のわたしたちの会話に先生が口を挟むことはなかった。大抵はノートパソコンで仕事をするか、寝袋で仮眠をとるかだった。
「あれ、先生には話したことなかったですっけ」
けれど、最近は三人で話すことが増えている。
そんな些細な変化に、わたしはどうしてか、叫びだしたくなるときがある。
「心操くんに初めて会ったとき『絶対にどこかで会ったことある』って思ったんですよ。でも全然思い出せなくて」
「お前ら同郷だったか?」
「ううん、違います」
「やっぱり勘違いだったんじゃないの?」
「そうかなぁ。でも……」
当時のことを思い出す。
廊下の人混みを掻き分けて一人の男の子が現れた瞬間、どくんと心臓がはねた。急激にバクバクと脈が速まり、反射で胸の辺りを押さえて。
そうしてなぜか、目が離せなくなった。
初めて見る顔。会ったこともない。
でも、たしかに〝わたしは彼を知っている〟──そう思った。
「顔を見た瞬間に、ばくんって心臓がはねて……なんていうか、こう、恋に落ちたみたいな」
──ブフッ!!
霧状の液体が、青い芝生に降り注いだ。
心操くんがプロテインを盛大に吹き出している。
「わ、大丈夫!?」
「ゴホッ……いや、ほんとっ……ゲホッ、悪い冗談、やめて」
「う、うん。ごめん。……例えだよ?」
むせる心操くんの背中をさする。申し訳ない気持ちが湧くより早く、とりあえずの謝罪が口からこぼれ落ちた。
そんな私たちを見て、先生は隣で深いため息を吐いている。
「……お前、そういうところあるよな」
「え、そういうところって?」
問いかけても、呆れ顔を返すばかりで答えてくれない。そのままじっと眺めていると「なんでもねぇよ」とあしらわれた。
なんなの、いったい。
──ミャア
どことなく非難されていそうな態度にむくれていると、膝下にいつもの黒猫がすり寄ってきた。
ごろりと転がってお腹を見せてくる。撫でてくれの合図だ。
その猫を遠目に眺めながら、先生が疑問を口にした。
「そういやお前、またたびでも持ってんのか」
「へ?」
「猫が寄ってくるだろ、いつも」
「ゲホッ……ああ、たしかに。俺も気になってました」
咳が収まったのか、心操くんが静止するように片手を上げる。
さすっていた手を止めて、今度は猫のお腹を撫でた。やわらかな毛並みが、手に吸いついて、心がふわりと溶ける。
「だっておやつあげてますもん」
「「は」」
「ほら、お昼寝中に猫ちゃんたちがいると先生たち急いで起こさないし」
心操くんが、うわぁと怪訝な顔を向けた。
「……お前、確信犯だったのか」
「え、そんなに悪いことですか? 二人とも猫ちゃん好きだから嬉しいかと思って」
残念ながら言い返す言葉もない、と二人の顔に書かれている。
「この子が一番先生に懐いてると思いますよ」
膝下で気持ちよく寝転がる黒猫を抱き上げて、自らも立ち上がった。
「それに、こっそりおやつをあげてるのはわたしだけじゃないですよね」
ニマァと笑って、先生の背後に回り込む。腰の左後ろのポシェットを開いて、隠しているつもりのチュールを取り出した。
「ひとつ貰いますね」
「おい」
咎められたが、何の威厳もない。
──ミャア!
「ほら、まだお腹空いてるって言ってます」
「……ったく、餌のあげすぎは良くないだろ」
構わず開封すると、黒猫が勢いよくペロペロと舐めはじめた。
その姿を見て先生も観念したのか「今回だけだからな」と力なく念押しして、黒猫の頭を撫でている。
見上げると、先生の口の端がほんのわずかに上がっていた。隣にいなければ気づかないほどの、小さな笑みだ。
途端に、謎の嫉妬心が芽生える。
「ずるい、わたしも」
先生の前にぬっと頭を差し出す。
「ずるいってなんだよ」
文句を言いつつも、ポンと頭に重みが増した。くしゃりと髪を掴まれて、独特の撫で方に、胸がとくんと音を立てる。
先生は最近、ほんの少しだけ、わたしに甘い。
「あの、俺もいいっスか」
「ああ」
振り返って、先生が心操くんの頭に手を乗せた。
ポンポンと手を弾ませている。
「へ?」
「あ?」
三人の空気が固まって、それから一気に弾けた。
「ぶっ、ははははは! 先生、違うよ! チュール!」
「……ああ、そっちか」
「〜〜〜っ」
ふるふると下を向く心操くんの耳が真っ赤になっている。
どうしよう、最高にかわいい。
「悪い心操、流れでつい」
「……い、いえ」
「あはっ、あははははっ、ふふっ」
もう、しょうがないなぁ。
先生のポケットから二本目のチュールを取り出して心操くんに差し出した。
「はい、どーぞ」
「お前はまず勝手にとるな」