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六十一、邪神の襲撃
──ああ、しくじった。
襲われたとわかったのは、一瞬のことだった。息を吸い込むより先に身体が変化し、黒い翼を広げて人間たちの前にすべり込む。
その瞬間、大きな斬撃がこの身を裂いた。
「がはっ……!」
バキッと鈍い衝撃が骨まで響き、遅れて自身が飛ばされたのだとわかった。激痛が走る。なにかに衝突した。大木だ。そのまま、ずるずると力なく地面に落ちる。
「烏さま!!!」
オオクメの叫びが届いた。
前方には高くそびえ立つ獣の、その鋭い瞳が、暗い森の中でゆらゆらと赤く線を引いていた。底知れぬ怒りが、無数の棘のように肌に突き刺さる。
獣の姿をしたそれがただの獣ではないことは、誰の目にも明らかだった。
傷口に集中する。治せ、今すぐに。戦わなければ。
しかし、すぐに塞がるはずの傷からは際限なく血が溢れている。
──くそ、毒か。
傷口から瞬く間に広がる鈍痛に顔を歪めた。侵食する痺れ。ゆっくりと波に攫われるような悪寒がからだを満たしてゆく。
耳鳴りがする。至るところから、もやががった悲鳴が聞こえる。
──邪神だ、逃げて。
言葉が、うまく音にならない。
しかし、われに言われずともそれは明らかな厄災だった──なぜなら巨大な〝熊〟に襲われたのだから。
邪神はあらゆる姿となって、われわれに襲いかかる。道なき道をゆく疲弊した兵たちはいつも怯えきっていた。いつなんどき、この命を落とすことになろうかと──。
迎える死が穏やかであればいい。しかし獣に腹を裂かれて死ぬなど、想像しただけで戦慄する。あの手首のない童──いつもは空元気なあやつすらも、怯えた瞳でそう話していた。
「みな下げれ、私がやる」
「や、め……」
やめろ、人間が敵う相手じゃない。
「イワ……ビコ、さ……ま……」
名前を呼ぶと、彼は一度だけこちらに目を向けて、すぐさま腰に下げた剣を抜いた。命を賭して守るべき者に背を向けられている。なんと恥ずべきことか。
まわりではバタバタと兵たちが倒れていった。みな邪神の瘴気に当てられているようだった。強制的な深い眠りへと落とされ、おそらく自力で目覚めることは叶わない。
視界の奥に、あの小さな童が見えた。逃げ遅れたそやつも例外なく、意識を奪われて瞼を閉じている。手を伸ばせど届くはずもなく、ただ空を切るばかりだ。
「怯むな! 隊勢を整えろ!」
遠くで殿の叫びが聞こえる。
後悔した。守る者があなただけならよかったのにと。すべての者を切り捨てて、あなただけを守れたらどれほど楽かと。
されど、現実は容易ではない。
いつしかそのような考えすら浮かばくなっている自分が、かつての残忍であった自分が、崖を転げ落ちるように弱くなっていく。
守るものが多いというのは、その道を幾重にも困難にした。今だって、そうだ。
共に過ごすうちに絆され、とうに他人ではなくなった仲間たち──われの〝家族たち〟が倒れてゆく。それを、ただ眺めることしかできない。
意識が遠のく。だめだ、守らなければ──。
悲鳴が聞こえる。あちこちで肉を裂く音がする。
イワレビコ様。オオクメ。みんな。お願い、逃げて。
まぶたの裏に光を感じて目を開くと、木漏れ日の中に横たわっていた。きらきらとした陽光が顔に差している。
温かい。まるで日の神さまの懐に抱かれているようだと思った。
「目覚めたか」
声の方に視線を向けると、殿が胡座をかいて近くに腰を下ろしていた。
「っ……イワレビコ、さま……ご無事ですか」
「ああ、そなたが身を挺して守ってくれたお陰だ」
──違う。われは何もしていない。ただ、力尽きていただけだ。
後悔は喉に詰まり言葉にできなかった。しかしこちらの意を汲み取ったのか、彼はおだやかな表情を向けている。
「傷の治りが遅いので、心配しておりました」
奥からオオクメが顔を覗かせた。手元で濡れた手ぬぐいを絞り、額に乗せられていたそれと取り替える。どうやら長らく眠っていたらしい。
あの最悪な状況下をどう脱したのか、イワレビコ様は静かに語りはじめた。
戦況が変わったのは〝遣い〟が到着したときだったという。
「お告げに従い、参上しました」
天上の神々より授けられし霊剣──布都御魂が届いたのは、まさにイワレビコ様の喉元に獣の魔の手が届かんというときだった。
邪神の毒で兵たちが次々と眠りに落とされる中、その神剣はあたりの瘴気を払い、兵たちを立ち所に目覚めさせたという。
よく見れば、イワレビコ様の懐には大きな剣が抱かれていた。
話を聞いてすぐに、日の神さまの思し召しだとわかった。あの人がこの神剣を届けてくださったのだ。
やさしいまなこが、瞼の裏に浮かぶ。
「きっと、日の神さまです。あの方が届けてくださったんです」
「お前を遣わせたという、例の主か」
はい、と小さく頷いた。
「日の神さま──天照大御神さまは、いつもあなた様を見ておられます」
「……なぜ、そんなことがわかる」
「ずっと、お傍でお仕えしておりましたゆえ」
殿は、そうかと返した。
「いつもすみれ色の水晶を通して、イワレビコ様を心配しておられました。われが遣わされたのも、大切なあなたさまを導くためです」
それなのに──。
「……きっと今頃、役立たずのカラスだと嘆いておられる」
自虐に嗤うと、目元に影が差した。無骨な手が、手ぬぐいを退かす。
「そうか。ならば気づかれているやもしれんな」
大きな手が、額に触れていた。自分じゃない熱がじんわりと広がってゆく。
「気づく? 何をですか」
頭を撫でられていた。くしゃりと髪を掴むようなやさしい手つきは、そのままゆっくりと降りて頬に張りつく。まるでそうするのが当然だというように、ごく自然に、そしてやおらかに。
「その役立たずのカラスとやらを、ひどく気に入っていることを」
ああ、胸が苦しい。
この大きな手にすり寄ってしまいそうな自分が、どうしたって嘆かわしくて。