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六十二、言葉にしてもいい

 検査を終えて元いた廊下に戻る頃には、足が鉛のように重たくなっていた。
 打たれた注射のせいなのか、はたまた疲労のせいなのかはわからない。体の一部であるはずの翼が、どうしてか重しのように肩にのしかかっている。
 
「おい」
 
 顔を上げると、彼は数刻前と変わらず廊下の長椅子に座っていた。
 とたとたと歩いて、隣に座る。
 
「ンで、どうだったんだよ」
「明日また検査するけど、おそらく大丈夫だろうって」
 
 がんばって口角を上げようとしたが、うまくできなかった。
 彼は眉をひそめて「そうかよ」と返した。
 
「爆豪くんは? 怪我とか」
「かすり傷だわ」
「そっか、……よかった」
 
 沈黙が落ちる。
 
 怪我人が大勢いるのだろうか。深夜帯にもかかわらず病院の廊下は煌々としていた。看護師の行き来が激しく、どうにも落ち着かない。
 観念して、まぶたの重さに逆らうのをやめた。それだけでも少し楽になった気がする。まわりの喧騒がゆっくりと遠のいてゆく。
 一方で、さきほど見た光景がまぶたの裏に滲んだ。
 
 
 目を覚ますと、そこは病室だった。
 
『まずは君の身体を切り開いて──』
 
 覚醒すると同時に耳奥で声がこだまして、恐怖が膨れ上がった。底なし沼に突き落とされたように身動きが取れなくなって、息が詰まる。
 
「っ……いやっ! 嫌ッ!!」
 
 錯乱したわたしの腕を、誰かの手が強く掴んだ。
 
「苗字ッ」
 
 射抜くような赤い瞳を頭の奥が認識するまで、わたしはひどく狼狽していた。
 近くにいたらしい看護師さんが、──大丈夫よ。あなた、助かったの。もう、大丈夫だからね──そう言って背中をさする間も、彼の瞳は一度も逸らされることなく、まっすぐにわたしを見つめていた。
 
 今でも信じられない。
 あの絶望的な状況から、いったいどうやって──。
 
 爆豪くんから聞いた話だと、敵の親玉らしき人物がワープで現れたときに、わたしも脇に抱えられていたらしい。その後は切島くんたちの助けもあって、爆豪くんが担いで逃げてくれたという。
 
 その間、わたしはずっと意識を失っていた。自分に失望する他ない。
 
 ──また、だ。
 
 またわたしは、何もできなかった。
 ヒーローになるためにこんなにも努力して研鑽を積んでいるはずなのに、結果が実を結ばない。雄英に入学してからはもちろん、入る前だってあんなに死ぬ気で鍛錬してきたのに。なのに、どうして。
 
 どうしてわたしは、肝心なときにいつも役に立たないのだろう。
 
「爆豪くんと、苗字さんだね?」
 
 頭上から降ってきた声に、堕ちた思考が遮られた。
 目を開くと、うつむいていた床に影が落ちている。
 
「できれば順番に事情聴取をお願いしたいんだが、今、平気かい?」
 
 身体が反射的に動いて、すぐ近くにあった爆豪くんのシャツの裾を掴んだ。
 ほぼ無意識だった。どうしてそうしたのか、自分でもわからない。
 視界の外で、彼がこちらを向いたのがわかる。
 
「チッ……後にしろ」
 
 横柄な態度で、警官をあしらう。彼がわざとらしく足を組んだところで、わたしの顔は完全に下を向いて、それきり上げられなくなってしまった。
 汚れた衣服に、小さな雫が落ちる。
 
「あ、ああ、そうだね……すまない。大変な目に遭ったのに、こちらも気遣いが足りなかったよ。よかったら誰か女性を呼んでこようか?」
「いい。さっさと消えろ」
「……わかった。それなら、また後で声をかけるよ」
 
 警官の足音が、ゆっくりと遠ざかる。
 
 ぽたり、ぽたりと音もなく流れ出した涙に、自分が一番戸惑っていた。突然どうしたっていうの。自分のことなのにわからない。
 ふっと身体の力が抜けるのと同じくして、まるで栓を抜くように涙が溢れ出した。喚くでもなく、嗚咽を漏らすでもなく、ただ静かに雫が頬を流れていく。
 
「……ごめん」
「謝んな」
 
 ぴしゃりと言い切られて、喉が震えた。
 
「っ……生き、てる」
「ああ」
「ばくご、くんも……」
 
 無事で、よかった──。
 
「ハッ、こっちのセリフだわ」
「なんか、……ずっと、っ」
「……」
「気、失ってたから……いまさら、きた……かも」
「そォーかよ」 
「変、だね」
「……変じゃねェ」
 
 裾を掴んでいた手が、そのまま乱暴に攫われた。頭から大きなブランケットを投げかけられて、小さな暗闇に閉じ込められる。
 
「っ……」
 
 どく、どく、どく。
 自分じゃない血液の流れを感じる。
 彼の手は、どうしてこんなにも温かいんだろう。重なったところから、じわじわと自分じゃない熱が押し寄せてきて、どうしようもなくぼろぼろと涙が溢れた。
 
 生きてる。生きてる。
 わたしたちは、助かったんだ──。
 
「爆豪ッ!」
 
 誰かが走り寄ってきたのが足音でわかった。つながった手が小さく揺れて、さらに強く握りしめられた。
 
「無事か、怪我は……」
 
 ブランケットの隙間から、そっと覗き見る。
 その人物は息を切らしながら、わたしの顔を見てぎょっとした。それからつながった二つの手を見つめて、今度は目を丸くした。
 
「悪い……邪魔したか」 
「ケッ、してねェわ!!」
 
 着崩れたスーツ。振り乱した長い髪。水たまりの中に浮かぶその人物が、一瞬誰なのかわからなくて、ぽかんとしてしまう。
 
 腕で涙をぬぐって視線を戻すと、目の前の男性はそっぽを向いて頬を掻いていた。その仕草が、よく知る人物と重なる。
 
「え……せん、せ?」
 
 どちらからともなく手が離れる。
 途端に恥ずかしさが押し寄せて、涙が引っ込んだ。
 
 え、相澤先生っ。なんで、スーツ。おひげ、ない。わ、わ。
 
 ひとりあたふたとするわたしを横目に映して、先生は安堵するように肩を落とした。
 
「はあ……さすがに肝が冷えたぞ、お前ら」
 
 長い移動で疲れたのだろうか、気だるげな先生はいつも以上に疲労の色が濃い。けれど、ふしぎなほどに表情は穏やかだった。
 
「いや、まずは無事でなによりだ」
 
 先生がわたしたちの前に座り込んで、片膝をつく。
 
「よくがんばったな、二人とも」
 
 やわらかな声で、先生はわたしたちを労った。
 
「えっと……なんで先生、スーツ着てるの?」
「いや、まあ、これは──」
「あの、少しお時間よろしいですか?」
 
 三人で振り返る。話しかけてきたのは、先ほどの警察官だった。


『すまんが、爆豪。先に行ってくれるか』
 
 相澤先生が爆豪くんを事情聴取に促して、わたしたちはそのまま病院の長椅子に腰かけていた。爆豪くんがいると話せないことが多いことを配慮したのだろう。
 
「ゆっくりでいい。話せるか」
 
 わたしはそれから、攫われた後のことを先生に話した。先生は静かに、されど時々酷く眉をひそめて、話を聞いてくれた。
 
 もし、あいつにまた捕まったら、わたしは実験体にされる、と思います──。
 
 能力を知られた挙句、想定していた中でも最悪の事態。
 先生は静かに奥歯を噛み締めて、それからゆっくりと自分を落ち着けるように深呼吸をした。それはまるで、憤慨している自分をなんとか律しているようにも見えた。
 
 先生が椅子から立ち上がる。また先ほどのようにわたしの前に座り込んで、片膝をついた。決意を宿した瞳と視線が絡む。
 
「お前は、俺たち教師が必ず守り抜く」
 
 だから、安心しろ。そんな未来は来ない──。
 
 そう力強く約束してくれた先生の瞳を、わたしは生涯忘れないんじゃないかと思った。
 
 
「そういえば、お前の兄さんから連絡がきていたよ」
「お兄ちゃんから?」
「ああ。来れなくてすまないと」
「そう、ですか」
「大規模な麻薬組織の摘発で、どうしても外せなかったそうだ」
「……うん、……うん」
 
 自分に言い聞かせるように、何度も頷く。
 大丈夫。こういうことがあることは覚悟していた。ヒーローを目指すと決めたときに。
 
 わたしのお兄ちゃんは、わたし〝だけ〟のお兄ちゃんじゃない。
 なによりもまず、みんなを守るヒーローなのだ。
 そしてヒーローとは時折、たとえ私的な感情をなげうってでも行かねばならないときがある。家族を犠牲にしてでも、大勢の市民と天秤にかけたときに残酷な判断を迫られるときがある。──公安に所属していれば、なおのことだ。
 
 だいじょうぶ、わかってる。
 
「まあ、頭ではわかっていても、感情が追いつかないことってのはあるもんだ」
 
 先生がわたしの思考を読んでか、静かに言葉を落とした。
 
「無理に理解しようとするな。悲しいなら誤魔化さなくていい」
 
 え、と思った。誤魔化している自覚がなかった。
 
「誤魔化してますか? わたし」
「ああ。少なくとも俺には、ひどく物わかりの良い子どもに見えるよ」
「子どもって……」
 
 まあ、まだ子どもですけど。
 
「素直に言えばいい」
「何を、ですか?」
「〝悲しい〟って」
 
 そんなことはできない、と思った。
 だって、言葉にすれば栓が抜けてしまう。もし一度でも開いてしまえば、中から濁流が溢れ出して二度と元には戻らない。そんな気がする。
 
「それは、ただの弱さじゃないですか……」
 
 ヒーローを目指している自分には、ふさわしくない。
 
「違う。あたりまえの感情だ。次に会ったときに、あいつにそう言ってやれ」
 
 驚いた。弱さを認めてくれる先生は、初めてだった。
 
「じゃあ〝来てくれなくて悲しかった〟って、言ってもいいんですか?」
「ああ」
「……相手を、困らせることになっても?」
「ああ」
「……そう、なのかな」
「〝家族〟なんだろ」
「え?」
「俺の妹を、頼みます。入学の時、あいつはそう話していたよ」
 
 途端に、今はないはずの春の匂いが鼻をかすめた。
 
──じゃあ、今日から君は俺の妹っすね。
 
 溢れそうな涙をこらえると、頭にぽんと重みが増した。
 髪の毛をくしゃりと掴むように撫でられる。そのまま、大きな手がぽんぽんと小さく跳ねた。
 
「……よく、がんばったな」
 
 相澤先生に頭を撫でられたのは、これが初めてだった。
 
 それなのに、どうしてだろう。
 このやさしい手つきが、こんなにも懐かしく感じるのは。

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