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六十三、お兄ちゃんが来た

 相澤先生が謝罪会見をした。
 オールマイトが引退して、わたしたちは象徴を失った。
 眠っていた間の出来事をうまく消化する時間もないまま、畳み掛けるように現実は進んでゆく。一人暮らしのマンションを引き払うことになったのは、つい二日前のことだった。
 
 段ボール、三箱分の荷物をほどく。
 たったこれだけしかないのか、とは思わなかった。一箱目には教材、二箱目には衣服、三箱目には雑貨や思い出の品が入っている。
 寝具や机は新居に備え付けがあるからと、すべて処分した。もとより家具付きの賃貸を借りていたため、さほど大きなごみもなく、引っ越し作業もすべてひとりで終わらせた。
 
「ふぅ、こんなもんかな」
 
 淡々と荷解きを進めると、ものの十五分ほどで新しい部屋が完成した。あっけないものだ。
 今日からはここが、わたしの新しい住まいとなる。
 
 ひと仕事を終えてぼすんとベッドに横たわると、張りのあるシーツの先でからだが羽毛に溶けた。目をつむり、ゆっくりと身を沈ませる。
 
 昔、たったひとつの段ボールを抱えて、施設を出たことがある。
 あれから、もういくつ棲家を移しただろう。
 お母さんと暮らしていたおんぼろの家、息苦しかった児童養護施設、記憶の薄い公安の訓練施設、そこからはお兄ちゃんの家に上がり込み、いずれそこはわたしの実家となった。
 中学卒業と共に巣立ち、地元を離れたが、一人暮らしの賃貸は兄の意向を十二分に含んだセキュリティの高いマンションだった。
 
 そうしてあらゆる場所を移ろい歩き、わたしは今、雄英敷地内にできた真新しい寮──ハイツ・アライアンスに身を置いている。
 
 その時々で必要なものは姿を変え、不必要なものは捨て置かれ、思い出の深い物だけが残された。
 その中でも、ひときわ大切にしているものが、ひとつある。
 
 後ろ髪を引かれる思いでベッドから抜け出してデスクに向かうと、〝それ〟はたしかにそこにあった。
 ベルベット調のトレイの上、丁寧に飾られたネックレス。細くやわらかなシルバーチェーンの先には、羽根をモチーフにした小さなペンダントトップが輝いている。
 
 ああ、次はいつ会えるのかな──。
 
「名前ちゃーん! 終わったー? 共有スペース行こうよー」
 
 部屋の外から声が届いた。透ちゃんの誘いに「すぐ行く!」と返して、わたしは無機質な部屋を後にした。


「えー、なんもなーい!」
「うへー、苗字も障子と同じくミニマリストだったんだな」
 
 三奈ちゃんと上鳴くんがわたしの部屋をしげしげと眺めて目を丸くしている。その後ろでは、数人のクラスメイトたちがぞろぞろと隙間から部屋を覗きこんでは同じ反応をした。
 
「にしてもよぉ、こーんな何もないことあんのかー? 女子部屋だぜ?」
「だなー、実はまだ荷物届いてなかったり?」
 
 疑わしげな峰田くんと、冗談げにこちらを見つめてくる瀬呂くん。
「ううん、これで全部だよ」と言うと、声を重ねて「信じらんねえ!」と返された。そんなことを言われても、本当のことだから困ってしまう。
 
「すげえ、マジで何もねぇな」
 
 他人の部屋に興味を示さなかった轟くんですら、静かに驚いている様子だった。
 
「わたしからしたら、みんなの部屋の方が驚きだけど」
「それは、物が多くて?」
 
 瀬呂くんが一目散に反応して、返答に困った。
 彼の部屋はとてもハイセンスだったけれど、それと同じくらいどうにも落ち着かなかったことを思い出す。
 
「まあ……うん」
「でもさ、高校生にもなると色々物入りだろ? インテリアとかもだけど、諸々集まってくんじゃん」
「そういうもの、かな」
「苗字は欲しいもんとかねぇの? 服とか、雑貨とか」
 
 残念ながら集まっていかないし、欲しい物も特にない。
 
「だって、いつ死ぬかわかんないし」
 
 流れるように口から出た言葉で、みんなの間を一筋の冷たい空気が流れていった。
 
「……は?」
 
──あ、やってしまった。
 
 我に返ったときには、みんなの顔に暗雲が立ち込めていた。まずい。
 誰もが一体どういうことなのだという顔をしている。
 
「え、死? どゆこと?」
 
 上鳴くんが素っ頓狂な声を上げると、隣からスパンと響香がはたいた。
 
「アンタは一旦黙って」
 
 響香の視線が、戸惑いに揺れている。
 慌てて弁明した。
 
「いやいや、死ぬつもりはないからね?! ただ、その、わたしたちだっていずれはヒーローになるわけで……そうなると、その……いつ、どうなるかなんて分からないじゃない? だからもしものことを考えると、ついこんな感じになっちゃって──」
 
 焦って口にした言葉は、墓穴を掘っていくようだった。彼らの表情がさらに曇って、もう巻き返せないとわかる。
 
「……ごめん。空気、悪くしたね」
 
 誰も言葉を返してくれず、しんと静まり返った。
 困り果てていると、僕は、という緑谷くんの言葉が沈黙を破った。
 
「苗字さんが過ごしやすいなら、それが一番だと思う。……ただ、もし、君の中で少しでも我慢……いや、セーブしている部分があるのなら、もっと持っていいんじゃないかな。大事なものも、そうじゃないものも」
 
 セーブしているつもりはなかった。
 しかし改めて問われると、自分でもよくわからない。
 
「僕には苗字さんの事情はわからないし、その覚悟は立派だと思うよ。でも、そんな言葉を聞いたら、きっとご家族がすごく悲しむんじゃないかな。それに、僕たちだって……」
 
 緑谷くんの顔には、哀愁と慈愛が混在していた。
 穏やかな目をしているけれど、その奥に小さな翳りがみえる。
 
「そっか……そう、だよね」
「ご、ご、ご、ごめんッ! 出過ぎたこと言って!」
「ううん、ありがとう。緑谷くん」
「そうだよ、緑谷! よく言った!」
 
 切島くんが、大きく頷きながら賛同した。
 
「おめぇ、前はあんなに色々持ってたじゃねぇかよ! 全部捨ててくるなんてもったいねぇよ! すげえいい部屋だったのによぉ!」
 
 切島くんがわたしの両肩を強く揺すりながら呼応するように叫んだ。
 
「「「……え?」」」
 
 あたりの空気が一瞬の内に凍りつく。
 それからドカンと爆発するように沸いた。
 
「なに?! なんで切島が名前の部屋のこと知ってんの?!」
「そうだよ! もしかして二人ってそういう関係なの!?」
 
 三奈ちゃんと透ちゃんが切島くんを押し退けて、半狂乱のままわたしの肩を揺らす。獲物を捕らえた肉食獣のように鼻息が荒い。
 
──ああ、面倒なことになっちゃったなぁ。
 
 異国で捨て置かれたような気持ちで、揺れる天井を見つめる。
 結局その日は、眠りにつくまでに長い長い時間を要したのだった。


 翌朝から仮免取得に向けての圧縮訓練が始まった。
 残り十日あまりの夏休みの間に、必殺技を完成させることを目標にTDL(トレーニングの台所ランド)にこもっての訓練が進められた。
 
 今日は、入寮して五日目になる。
 
 少し先が見えてきた者もいれば、すでにいくつかの技を習得している者もいて、その多種多様な成果を報告なり相談するような場所として、夕食終わりの共有スペースでの寄り合いが定例となっていた。
 後期の始業が近いこともあって、今夜はほとんどの生徒が集まっている。
 
「爆豪の新技すげェよな。P・P・ショットだっけ?」
「違ェわボケ!! A・P・ショットだ!! ンだその弱っちそうな技は!!」
「悪ィ、悪ィ! ンな怒んなって!」
 
 目の前のソファに座る爆豪くんと切島くんが、激しく口論している。
 
「必殺技といえば、常闇のもなんか洗練されてきてるよなァ。しんえん──なんだっけ?」
「〝深淵闇躯〟だ」
「えー、なんか言いにくーい」
 
 隣のソファでは、瀬呂くんと三奈ちゃんが常闇くんの新技について好奇心を滲ませている。
 わたしも混ざろうかと思ったら、隣に座る轟くんから声をかけられた。
 
「苗字は、調子どうだ」
「え、わたし?」
「ああ、無理してねぇか」
 
 その言葉を聞いて、彼がインターンの時のことを言っているのだとわかった。ミルコさんとの鍛錬中に、不意に目撃された、あれだ。
 
「うん、無理してないよ。大丈夫」
「……ほんとか?」
「本当だよ。轟くん、あの時のことを心配してくれてるんだよね。ありがとう」
「いや、まあ、それもあるんだが……」
 
 口篭った彼は下を向いて、それからゆっくりと顔を上げた。
 
「俺は、お前が死んだら、すげぇ悲しい」
「……え?」
「だから、やるなら死なない程度に頼む」
 
 ああ、違う。部屋を見たときのことを気にかけてくれていたのか──。
 
 どうやら轟くんを不安にさせるくらいには、わたしの部屋は普通ではなかったらしい。たしかに平凡とは少し逸れた人生を歩む自分には、いまだに〝普通〟を演じることが難しかったりする。
 
「うん、ありがとう。わたしだってそんなかんたんにはくたばらないよ!」
 
 そう言って笑顔を返すと、彼は少しだけほっとしたような表情で「……そうか」とやわらかな笑みを返してくれた。
 
「それと、これは提案なんだが」
「うん」
「今度、二人で出かけねえか」
「……へ?」
 
 予想外の提案に面食らって、それと同時にまわりの喧騒もぷつりと消えた。全方位からの視線を感じて、顔が引き締まる。
 視界の端で、三奈ちゃんが「きゃっ♡」と口に手を当てた。
 
「えっと……それは、なんで?」
「いろいろ、探しに行くのがいいんじゃねぇかと思って」
 
──もっと持っていいんじゃないかな。大事なものも、そうじゃないものも。
 
 先日の言葉がよみがえった。
 
「あ、ああ! 緑谷くんの、あれね!」
「ああ」
「び、びっくりした……」
「? 俺もだ。お前の部屋がすっからかんで、正直ビビった。それと、いつ死ぬかわからねえからっていう、あの理由も」
「そ、そうだよね! 驚かせてごめんね。でも、わたし、本当に物を持たない性分で、だからそんなに心配されるようなことでもなくて……えっと……」
 
 どう言葉にすればいいだろう。なんと言っても、うまく伝わらない気がする。
 
 ねえねえ、と声が聞こえて顔を向けた。
 三奈ちゃんの目が、キラキラと輝いている。嫌な予感がした。
 
「デート!? それってデートのお約束!?!?」
「あ、いや! これは違くて……」
 
 そのときだった。
 
「ぜんぜん違うし、行かせないし、まず論外ッスね」
 
 幻聴が聞こえて、背後を振り返る。
 
「……え?」
 
 まぼろしではないその人物は、柔らかなほほ笑みを貼りつけてそこに立っていた。
 ぷつんと、全ての会話が途切れる。あたりに静寂が訪れて、けれど固まっていた空気が溶けるのもまた一瞬だった。
 
「「「ホークスぅぅぅうう?!?!」」」
 
 突然の人気ヒーローの来訪に、驚愕と歓喜の声が沸き起こる。
 
「え!? ヒーローホークス!? マジ!? 本物!?」
「やべぇ、俺初めて生で見た!」
「かっけー! サインくださいっ!」
「つーか、なんでいんの!?」
 
 羨望の眼差しを浴びて、彼はニッコリとほほえんでいる。
 反対にわたしは、決して動くことのできない大岩のように固まってしまった。それくらい驚いていた。
 
「ホークス、なぜここに!」
「やぁ、常闇くん。インターン振り〜」
 
 ひらひらと手を振るその人物が一瞬だけこちらに目を向け、それから騒ぎ立つクラスメイトたちに視線を戻した。
 
 そんじゃ、改めまして──とわざとらしく咳払いをして、あざとく見せつけるかのように紅い剛翼がバサリと花開く。
 
「一年A組のみなさん、どーも初めまして。俺はウィングヒーロー・ホークスこと──」
 
 ゆっくりと屈んで、ソファの背当て越しに近づいてくる。片腕がわたしの首元にくるりと巻きついた。
 
「名前の兄です。どうぞよろしく」
 
 金色の鋭い瞳が、すぐ近くで、たしかに瞬いていた。

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